syokuiku 浜田陽子の「食育」

昔は無かった「食育」今必要な「食育」

私は長く、昭和初期からの食世代論を研究し、自分なりに解釈しています。
それにつけて、いつも思うのです。

【食育なんて、昔は家庭や地域に存在したもの】

古き良き時代の子どもは、

家族の食事のための食材の調達から調理、片付けまで、当たり前の仕事として母を手伝い、
家族で食卓を囲み、下の子どもの食事を助けました。
祖父母から行儀作法を習い、それに背いて粗相をすると近所のおじさんやおばさんからだって叱られる・・・「行儀が悪い!」。
が、昨日叱った怖いおばさんが、今日は笑って畑からお裾分けをくれる。

そういう他愛ないコミュニケーションや食のルールが食育の真理であり、
「食育」という名詞すら不要な、日々の営みだったのでしょう。

核家族、少子化、地域の希薄化・・・2005年『食育基本法』成立の根本には、今の日本が成長とともに変化し喪失した様々な要素がありました。

残念ではあるけれど、それらの要素を憂いて「あの頃は良かった」と言い続けるのは不毛です。
すべてを「昔のようにするべきだ」とも、私は思いません。
むしろ、建設的で柔軟な思考を以て、時代の変化に社会が対応すべきだと考えます。

そのためにまずは、食育を通して子どもたちに何を伝えたいか、整理する必要があります。

子どもは共有財産だから、社会が一丸となってしっかりどっさり食育を与えるべきでしょう。
全国の町村単位で、食育のエキスパートが1~2名配備されていて然るべきだと思います。

しかし、子どもたちに「食育ってどうしてあるの?」と聞かれて即答できないようでは、指導者も、それを冠した民間資格も意味がありません。

子どもは大人が思っているよりあざといです。
我々大人は、そして社会は、聞いた風な食育セオリーで「育む」ことはできないこと、
ゆめゆめ忘れてはいけません。

彼らの未来のために、そのまた子どもたちのために、大人と社会が「真の食育」を心から考えたいと思います。

私個人の願いとしては、体が動く限り、できれば天寿の瞬間まで、食を通じて子どもたちを愛し守り続けたいと願っています。

まず育むべきは「想像力」

■「食」が育む想像力

食育とは実に様々な捉え方がありますが、大きくまとめると「食を通して子どもたちを育むこと」。
具体的に何をプライオリティーとして育むべきか、わたしの中には明確な順位があります。

ぶっちぎりの首位は「想像力」。
ヒト・モノ・コトを推し量ったり、思い描く力です。

想像力が乏しい子どもは、人を刃物で刺すとその後どういうことになるかを想像できません。
それは大袈裟な例としても、言葉や行動で自他を傷つけることによって、自分を愛する周囲の人がどんな気持ちになるか、思い描くことが難しかったりします。
自分が愛されていることを実感する力や、他者を思いやることも、想像力がベースです。

そして、想像力は経験で養われます。

昔、木登りや鬼ごっこで怪我をして、痛みを覚えたように。
秘密基地を作り、友人と泥んこで完成を祝福し、心躍らせたように。
缶蹴りやめんこで如何にして勝つか、作戦を練りに練ったように。

そういう「経験」が日常に少なくなった現代っ子も、
大人よろしく携帯やネットを操り、国際感覚を身につける機会に恵まれている等、良い面もあるでしょう。

ただし、想像力に関しては、驚くほど低下していることを認めざるを得ません。

そして、現代において子どもの安全を確保しながら想像力を養う良きツールが「食」の中に溢れているのです。

土に埋まったさつまいもを引き抜く時に、その根の力強さと生命を知る。
魚をさばいて、血が通い内臓を有していることを目にし、触って、確かな命を感じる。
キッチンでお手伝いをして、親の大変さと料理の楽しさを知る。
幼稚園や学校でお弁当箱を開けて、親の愛と、愛される自分を感じる。
包丁や火を使い、危険への予知とその対策をする。
ひき肉がハンバーグになる。大豆が豆乳とおからになる。牛乳がチーズになる。食材が変化する事実を知る。
作りながら味見、作り終えてから味見。温度による味覚の違いを知る。

挙げだすとキリがありませんが、子どもたちは、そのひとつひとつを彼らの感性で受け入れます。
昔の子どものような経験ができなくても、「食」からたくさんのことを見つけ、ドキドキもわくわくも経験します。
食は子どもたちの想像力を豊かに育むことができるのです。

■痛みを知るために

【想像力が豊かな子に、キレる子はいません】

この関連性を、私はずっと信じています。(ここで言う「キレる」は、突然ストレスを放出したり、言いたいことをぶちまけるといった誰にでもありそうなことではなく、自我に溺れ当たり構わずぶつける暴力的行為を指します。)

ほとんどの子に、成長の過程で多感な時期はあり、子どもによっては強い反抗期を迎える子もいるでしょう。

無性にイライラ・・・・なんだかムシャクシャ・・・・
根拠不明だけど両親や先生が鬱陶しい・・・・・・
あ~~~~もうキレそう・・・!

でも、幼い頃から想像力を養っている子は、

キレることができないのです。相手が悲しむ結果を知っているから。
未熟ながらもキレる前に考えることができるのです。物事や思考には、あらゆる方向性があることが分かっているから。

わたしの食育では、想像力の育成をフォローすることを、最も大切にしていますが、
「昔の子の経験」と比べて、「食の経験」は子どもだけでは成り立たないことの方が多いため、大人が意識的に関与することが必須です。
そして、大人の声掛けがとても重要です。

例えば、弊社で長年小学生~中学生を対象として開催しているキッズクッキングでは、

魚をさばく時には事前に、「『気持ち悪い』って言っちゃダメだよ」と声をかけます。
気持ち悪いという生理的な感覚を表現することは否定しないし、実際言ってしまうのだけど、言う言わないが問題ではありません。

「この魚も、ちょっと前まで、人間と同じように呼吸をしてちゃんと生きていたんだよ。皆と同じようにお父さんもお母さんもいたんだよ。自分や家族やお友達がもし魚で、元気に泳いでたのに獲られちゃって、その上誰かに気持ち悪いって言われたら、って考えたら辛いでしょ。だからできるだけ言わないで」

痛そうに眉を寄せる子もいれば、ぽかんとしている子もいますが、想像力を掻き立てる声掛けはマストです。
ただ料理をするのではなく、食に関わる「生命」について考えさせたいのです。
(ちなみに、「呼吸の場所(肺とえら)が違うよ」とか、「受精したらお父さんはどこかにいくんじゃないの?」とか、結構いろんな反論もありますが・・(笑)そういった論議もまた、想像力のレッスンになります。)

■想像力は、コミュニケーション力へ

子どもたちと料理をしながら、「パパに食べさせてあげたら、どう言うかな~?」と、今ここにいない親を想うことも、よく促します。
子どもはパパの顔と「おいしい!」の言葉を想像するでしょう。

食材が調理中徐々に姿を変えていくとき、「さぁこれからどうなる?どうなるかな?!どうなると思う~~!?」大人が投げかけることで、彼らは、こうなると思う!ああなるんじゃないかな? 脳の中で、一生懸命推し量る作業をします。
結果を見て、想像することの楽しさや、自分の考え方が全てではないこと、たくさんの学びを得ます。

そういう声掛けは、弊社のような料理教室でなくとも、各家庭の中でできますが、
私自身指導者である前に、ワーキング&シングルマザー。プライベートで、なかなかそんな余裕はありません。

だから、食の指導者としても一母親としても、本当の食育を教授する子ども料理教室が日本中の何処其処にあったらいいなと思うのです。

年齢が違う何人かの子どもたちが集まって食を学んだり料理をすることで、
「(この作業を」したい!」と「我慢しなきゃ・・」の狭間で、小さい頃は人に譲れなかった子が、友達を大切に感じたり、更に小さい子の面倒を見ることで譲り合うことを自然に覚えていきます。

譲ってあげると相手が喜ぶから。誰かが喜ぶことが嬉しいから。
そういった思いやりもやはり、想像力が造っているのです。

想像力は、コミュニケーション力にも直結します。

私は子どもたちの中に豊かな想像力を育てたい理由は、とても単純で基本的なことかもしれません。

成長期から晩年までの間に、素晴らしい出会いに恵まれてほしいのです。
一人が好きな子には、一人が好きな自分のことを自信持って認め、愛してほしいのです。

普通のことを普通にできる大人になって、それぞれの人生を愉しみ、
いずれ子どもを得るならば、しっかり子育てができる親になってほしい。

そんな、本当に単純な祈りです。